タイで南部国境3県と呼ばれるパッターニー、ナラーティワート、ヤラー。(この国境は、タイの南側のマレーシアとの国境。)英語ではDeep South=深南部と呼ばれる。
9割以上が仏教徒であるタイにおいて、約8割の人々がイスラム教徒である深南部では、アーティストのスタイルもバンコクやチェンマイなどとは異なる。そこにはアーティストたちのマレームスリムというアイデンティティ、この地域の歴史や2004年以降激化した紛争など社会政治的背景が深く関係する。
私が初めてこの地を訪れた2014年頃から比べても、ここ10年ほどで街の様子も目まぐるしく変わり、アートシーンもとても活発している。バンコクから地理的にも離れており、簡単に頻繁に足を運べる場所ではないことがもどかしいが、深南部についての記事をシリーズ化しお伝えしていきたい。
タイの行政区分として南部と区分される県は全部で8県あり、日本でもリゾート地として知られ外国人観光客からも人気のあるプーケット県やサムイ島があるスーラーターニー県なども含まれる。そうしたリゾート開発されたビーチリゾート風景は深南部3県にはなく、手付かずの自然が多く残る海岸線には、カラフルな魔除けの布や彫りが施された船が並ぶ漁村が多い。
この地域には14世紀から19世紀まで、現在の深南部3県と、国境を挟んでマレーシア側のケランタン州、ペラ州、ケダ州を含めたエリアにパタニ*王国(Patani Kingdom)があり、タイという国名になる前のシャムとの戦争を経て、近代国家としてのタイに組み込まれたという歴史背景がある。その際に、マレーシアを植民地化しているイギリスとの関係で、かつては同じ王国・文化圏であった地域を分断する形で国境線が引かれ、深南部3県はタイに組み込まれることになった。
近代国家形成の過程でタイは、国民統合のためにタイ語・仏教・王室を使ってきたことはよく知られているが、この過程でマレー語を母語としイスラム教を信仰し、元々は自分たちのスルタンがいたパタニの人々は、マレー語でイスラム教を学ぶことを禁止され、タイへの同化を求められた。この頃、パタニの分離独立を目指す運動なども始まり、現在も存在するBRNなどはこの頃に立ち上がった組織である。分離独立派の過激派は爆弾テロを起こすこともあり、タイの国軍が駐留し、深南部3県内の各所にほぼ常設の検問所が設けられることとなった。こうした風景は深南部以外では私は見たことがなく、ここが紛争地帯であることを意識させられる物体でもある。
暴力事件の件数は、時の政府の政策に連動するようであるが、タイ政府が融和路線を採っていた頃は件数が減り、2001年に発足したタクシン政権下でまた件数が上昇、2004年のクルセ・モスク事件やタクバイ事件が勃発したしたことで、それを機にまた事件件数が増えていくという政治状況にあった(Deep South Watchウェブサイトより)。
現在は、ニュースは時々耳にするものの、事件数は徐々に減少していっているようである。
私が初めてこの地域を訪れたのは8年ほど前のこと。タイ政府が強権的な同化政策をとっていた頃の民主化運動のアイコンであり、失踪して以来その後の彼を誰も知らない民主化運動の英雄ハジ・スロンの失踪から50年の節目でのイベントを見学しに行ったことがきっかけだ。このイベントは、彼の功績の展示や詩の朗読など様々な文化イベントが実施されていた。
(余談ではあるが・・・私がこの地域に興味を持つきっかけは、もとを辿れば学生時代からの興味関心ということになるが、改めて関心を向けたきっかけは1本のマレーシア映画だった。その映画は『ブノハン』という作品で、マレーシア北部の架空の街ブノハンを舞台にした映画なのだが、現実と虚構の境界が曖昧な多層的な物語の中で、登場人物たちが国境を超えてまさにタイ深南部に入ってくるようなシーンがあり、タイにもムスリム文化があるのか、と関心を持ったのが最初である。以来ずっと行ってみたかった場所であった。)